品川区荏原。
 この地域一帯は、古来、戦場ヶ原と称せられ、戦国時代はしばしば戦場となり、戦死や疫病による死者の遺体が散乱していたと伝えられています。

 江戸時代初期、浄土宗の僧、林譽霊源和尚はこの地帯を行脚され、遺体を集めて浄梵供養し、堂宇を建立され、その号を「諸宗山霊源寺」としました。

 その後、本堂裏山において火葬が行われ、「荼毘寺」「火葬寺」「無縁寺」として伝承されてきましたが、大正の初期、その職務を東京博善株式会社に譲渡し、その地は現在の桐ヶ谷斎場となっています。

 昭和元年、渡辺眞海上人が住職となり、以降は法縁の新谷寛應上人、渡辺眞澄上人が住職を継ぎ、昭和58年、渡辺眞海上人の弟子にあたる太田隆賢上人が住職となりました。

 この時に、老朽化した本堂客殿が新築され、現在の姿となり、現住職の太田眞琴上人へと受け継がれています。境内には、歴代上人の墳墓、ならびに無縁万霊供養塔があります。



阿弥陀如来坐像
 浄土のもともとの意味は、仏国土つまり仏さまの国、世界ということであり、清らかな幸せに満ち、そこに生まれるとどんな苦しみもないところで、例えば薬師如来の東方浄瑠璃世界、大日如来の密厳浄土など、いろいろな仏さまがそれぞれに浄土を築き、そこで説法していると説かれています。

 その中で極楽浄土は西方浄土ともいわれ極楽界、安養界などともいわれていて阿弥陀仏が仏になる前の法蔵菩薩の時に「命ある者すべてを救いたい」と願って四十八の本願をたて、その願いが成就されて築かれた世界であります。

 すなわち、阿弥陀仏が人々を救うために築かれた世界。
 どんな人々であろうとも、 念仏を称えるならば、命終ののち生まれることができる永遠のやすらぎの世界。
 けがれや迷いが一切ない、真・善・美の極まった世界ではありますが、単に楽の極まった世界ではありません。

 われわれは浄土において、仏になるために菩薩行をつみ、やがて仏になることができると説かれています。
 四十八の本願の第十八番目が「念仏往生の本願」といい、南無阿弥陀仏を口に称えるものは、皆極楽に往生できると説かれ、『阿弥陀経』には、西方十万億土の彼方にある国と記されています。



霊源寺御内仏
 浄土宗は、法然上人(法然房源空上人)を宗祖と仰いでいる宗旨です。


 法然上人は、約八百七十年前に現在の岡山県にお誕生になりました。



 幼少にして父を失い、それを機会に父の教えのままに出家して京都の比叡山にのぼって勉学し、当時の仏教・学問のすべてを修した後、ただひたすらに仏に帰依すれば必ず救われる、すなわち南無阿弥陀仏を口に出して称えれば必ず仏の救済をうけて平和な毎日を送り、お浄土に生まれることができる、という他力の教えをひろめられました。


 当時の旧仏教の中でこの新しい教えを打ち出されただけに、いろいろな苦難が続きました。
 貴族だけの仏教を大衆のために、というこの教えは、日本中にひろまり、皇室・貴族をはじめとして、広く一般民衆にいたるまで、この導きによって救われたのでした。


 法然上人は、どこにいても、なにをしていても南無阿弥陀仏を称えよ、とすすめておられます。


 南無阿弥陀仏と口に称えて仕事をしなさい、その仏の御名のなかに生活しなさい、と教えられています。


こうした教えがひろまるにつれて、その時代の新しい宗教であったため、いろいろなことで迫害をうけましたが、そのときでも、法然上人はこの教えだけは絶対やめませんという固い決意をあらわしておられます。
 また亡くなるときにも「わたしが死んでも墓を建てなくてもよろしい、南無阿弥陀仏を称えるところには必ずわたしがいるのです」と、その強い信念を示されました。


 亡くなってから八百年になりますが、その遺言とは反対にお寺がたくさんできたということは、いかに法然上人の教えがわれわれ民衆と共にあってその教えを慕わずにおられなかったか、という心のあらわれであります。


 南無阿弥陀仏の仏の御名は、すぐ口に出して称えられます。できるだけたくさん口に出して称えるほど、私たちは仏の願いに近づくことになるのです。
 するとわたくしたちはすなおな心になり、今日の生活に必ず光がさし込んできて、生き生きとした、そして、平和なくらしができるようになります。
 それは明日の生活にもつづいて、日々くらしの上に立派な花を咲かせてくれます。


 法然上人の教えは、今生きることによろこびを感じることであります。


 念仏を称えながら、充実した日々をお過ごし下さい。



法然上人
名称  浄土宗

宗祖  法然上人

開宗  今から800年ほど前、承安5年 (西暦1175年)

本尊  阿弥陀仏(阿弥陀如来)

教え  「南無阿弥陀仏」を称える称名念仏
お経  『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』の浄土三部経